昭和43年9月23日朝の御理解 第72節


 昭和43年9月23日朝の御理解を頂きます。御理解第72節人間を軽う見な。軽う見たら、おかげはなし。人間を軽う見な。軽う見たら、おかげはなし。これぐらい神様にしかも教祖様のここお教え、特に御理解は非常にみんなに親切に説いてございます。けれども、なかでもこの72節は丁度四神様のお教えの御理解の様な感じがしますね。四神様のみ教えはそれこそ剃刀で切ったような御理解ですね。それに似たようなまあいうなら、教祖様の御理解の中では、その感情の強いこの御理解ですね。おかげはなしとこういうてありますね。一口に言い切ってあります。人間を軽う見な。軽う見たら、おかげはなし。***本当に軽う見たら、いけん。本当に自分自身がやはり本当に分からなければならない。軽う見るだけじゃあない。自分と言うものがどれぐらいの人間かということが分かったら、本当に言うなら、立派に見えてくるんだ。そういうような自分と言うものを本当に現実に分からしてもらうところから、なるほど、それは器量はよいかもしれん。なるほど、自分は先生より学問をしておるかもしれん。なるほど仕事の上に切れるかもしれん。けれども、本当に自分と言うものを見ると例えば、本当に自分のような汚い心が乞食の様な人のものをかすみとるような心と言うものが心にある様に鳴戸、その人の例えば、美しさと言うものが、相手の美しさが見えてくると見下げるというものではない。みんながまして立派に見えてくる。やっぱり自分と言うものを見極めると言うことが大事と言うような意味に私も最近思わしてもらう。そういう様な徹底した考えの中から、人間尊重ですよね。人を尊重できますし、見下げたりすることもいらなくなってくるんですけれども、非常にやっぱりむずかしい。それは、夕たまたまお茶をしておりましたから、お茶の席に出ましたら、遅くまでたとえば、こちらに出てくるまで、次々に先生方の協議会から帰って見えてにぎやかなことになったんですけれども。そのときの席でお茶ぐらい一通り覚えきっとかにゃあいけん。それは松栄会の方達もお茶を一つ習おうかと言うような話が出ていましたけれども、そのとき、考えたんですけれども、*目でお茶をいたしておりましたときに丁度、***いわゆるお茶日向ですね。お茶にふさわしい雰囲気の夜でした。それから、皆さんが帰られたあとにお茶をするもんだけで、お茶を****ちゃんと残っておるんですよ。ですから、帰りなさいと言うわけにはいけんし、もう帰るだろうと思っても何時までも帰らんですよね。だから、私も控えの四畳半の間ですね。あちらでお茶をいたしますから、だから、いうなら、仕方がないから、たた男さん、こちらに入りなさい。お茶の雰囲気にふさわしくないと思ったけれども、そういうて、言いましたので、入って来ました。めいめいお茶を頂いたり、しましてただお産の番になった。ところがですね。私共もびっくりいたしましたけれども、定男さんがちゃんとお手前をしてから、お茶を頂くんですよ。しかもああいう素朴なね。もうなんとも言えん。その本当に味合いのある人の風格さえ感じる程のお茶の頂き方なんですね。何時の間にこんなことおぼえとったんじゃろうかともうおどろきやら、恥ずかしい思いをするやら、神様にその事をお届けさして頂きよったら、わびすけと言う椿がありますよね。お茶をする時、一輪挿しに花が一番と言われる花がわびすけと言う椿の一種です。本当にここにわびすけがあると言う感じでした。そのときにですね。本当に人を軽う見てはならんなあと私は思いました。まあ、言うならば、誰が見ても一人前とは思われない。風体から、すること言うことから、けれどもやっぱり姉がお茶をする時に何時も見ておったり、また、頂いたり、相手をしよったんですね。きっと。知らなかった私は本当に人を軽う見ちゃならん。私共は何時も信心で心がけておりますから、本当に自分の様な自分のような先生と言われるけれども、その人よりも自分が本当はつまらんぬ。私だと言ったようなもの自分に感じ取って知っておる。けれどもね。やはり、手落ちの事がある。まさしく人を軽ろう見ておるわけですね。そこで私は今日そういう意味合いにおあても人を軽くみなと言うことだけではなくてですね。もうこれは手落ちはないぞ。間違いがないと何時でもかまわず、人を軽う見らんですむ。おかげを頂かなければためにもです。私共はいよいよ信心にならしてもろうていよいよ私共が神心を目指して神心を厚うして行かなければ、いけないということです。これは場合によって自分が謙ると言うことではなくて自分が大きな所にあるのかもしれません。神心を目指しておりますから、高い所から、見下しておるのじゃあありません。それは丁度神様が高い所から難儀な氏子の姿をご覧になってそして、身の上に思いをかけてくださるように私共の心の中にいわゆる神心が育っていく。これは何時か申しましたようにお道の信心は真とか真心とか、キリスト教で愛を説くなら、仏教では慈悲を説く。お慈悲という。金光教では真を説く、といわれていますけれど、私は意味が分からなかった。いや違う真じゃあない。金光教で本当の事を説くなら、神心だ。私はそうかっぱした。教祖が説かれたのはそんなもんじゃあない。まことじゃあない、真心じゃあない。神心だ。神心の中に真があるのであり、真心もあるのである。私はそういうふうに感じ、そういうふうに思うております。教祖は神心を説かれたのだ。そしてその神心を頂くことを願われたのだ。神心になることを信心とはわが心が神に向こうて行くのが、信心と言うのである。この方の事を生き神と言うが、みんなも子のようなおかげを受けられる。生き神とは、ここん神が生まれると言うことであってというように生き神を目指しての信心なのだ。そこに目指せば目指すほど精進すれば、精進するほど高められていくのが神心なのである。はあ、なるほど、神心を強うして行きゃあね。見下げると見上げるとかはないんです。軽う見るとか、重う見るとかじゃあないです。みな、一志同じにです。見れる、むしろ、その風が悪かったり、汚らしゅうしておれば、しておるほどに神心かえれば、可愛いものじゃということになってくるんです。自分よりつまらんものはなか、自分ほどつまらんものはなかということもありがたいけれども、ところが自分よりもっといよいよつまらんものとそれを認めなければならない。あきれ果てた人間である。もう見下げはてた人間だと言うような例えば、ありますけれどもそういうときになら、いわば、神心であればそうであればあるほどに可愛いものじゃということになってくる。きれいな人じゃなあと言うことになってくるんです。ですから、皆さんどうでも私はいっています。いわゆる神心を目指しての信心、そこから、私共がですね。人を軽うて見ることのない。軽ろう見なくてすむおかげ、そこにはいわば、このお教えを繰り返すとです。おかげがありといえるのではないでしょうか。下駄の歯がかけても歩きにくいんです。ましてですね。私共の心がかげておって本当の世渡りが出来るはずがありません。そこでころんだり、そこでつまずいたり、それこそ***歩かなければ、なりません。下駄の歯が欠けても歩きにくいのですから、この世の中をです。幸せに歩いて行こうと言うのに自分の心が欠けておってですよ。満足な歩きが出来るはずがありません。そこで真心がかりたとか、親切がかけたとか、真心が欠けたのであろうと言うふうにかんじます。それも結構、けれども、それもですけれども、それよりも何よりも私共が焦点である願いであるところが生き神である。神心である。神心が育っていくと言う楽しみの信心になっていく所に、私はね、いわゆる円満ごしょくの穂とでもいいましょうかね。そうでしょうが、とにかく人間、それは人間だけではありませんけれども、人間の全てがですね。神心で見えれる様になる。小は小なりに、いわば、満たされたものというか、欠けたものではない生き方。そこにですね。たとえば、それが生活の上においてもその日暮らしでありましてもです。月が差し込むあばら家でありましてもです。その日その日がありがとう過ごせれるということなんです。結局私共の心の中に神心が強うなって行くということ。私共の修業中の時分の事を思うて見ると、さあ、お父さん明日の頂くものがないですよ、と言うときでもです。私共の心の中にいっぱいいっぱい充満しておったのが神心びったんです。ですから、そこには不満がない。さあ、どうしようかと言うものがない。早うおかげ頂かなならんと言う急ぐというあせり心もない。明日は明日神様が明日の風はまた、明日の風が吹いてくるのだ。さあ、さあ心配せずに今晩は休ませてもらおう。明日明日のおかげを頂いていきゃあ立ち行こうがと言うようなものが心が育っていっておった。そして人が助かる事ならば、人が喜ばれることならば、もう欲徳を抜きにしてお話をして回ったり、御用に回ったりさせて頂いた。それが揃っているのである。***
おかげ急ぎだけはしちゃあならんよ。それこそ、おかげが目当てだから、おかげを急ぐわけである。御神眼にとうきびを頂く。とうきびの赤かしらがまだ黒くなっていないのに実が入っていないじゃあないかとこうやって破って見ておる。まだ中がびよびよといったような。それを中をはぐって見たときにそこから水が入ったりしてきてですね。そこから、実が入らなかったり、また、実が腐ったりする。ちゃんと赤頭が黒うなっていうなら、黒が黒は修業と言う。修業なら、修業が一つの成就するとそれこそ、バチバチするような実が入る。そこんところを時節を待っておかげを受けよとこうおっしゃる。そういう時節を待たんでももう時節が来るのをちゃんと時節到来がねを信じての信心の稽古ができるのである。おかげ急ぎほど実はつまらんことはない。目先目先のおかげなら、なるほどおやつをもらうようなおかげ頂けよるけれども、本当に神様がくださろうとしておるところのいわゆる中身の入ったバチバチ入ったおかげを頂く時節を待ってとこうおっしゃる。その時節を待つ間はどうやって待つかと言うと、いよいよ信心を目指していよいよ神心を目指しての信心。ですから、人を軽う見らんですむだけではないけれども、いわゆるおかげを頂けれる。いよいよ、おかげあると言う心が育っていく。ここにはおかげがないとこういう軽う見な。人を軽う見たら、おかげはなしとこうおっしゃる。おかげはなしじゃあなく、おかげはあるという心が育っていく。だから、その日暮らしでも100円でその日暮らしを500円のその日暮らし、1000円のその日暮らしに内容が豊かに大きくなっていく。そして、時節到来の日にお互いがあせらずに近づいて行けれる。人間を軽う見な。軽う見たら、おかげはなしと軽う見らん。軽う見ちゃあならんと言う。その思いから、自分と言うものをいよいよ分からにゃあならん自分と言うものをいよいよぎりぎり分からしてもらうことを目指すのですけれども、今日頂くところによるとです。それよりも私どもはいよいよ神心を目指そうとこういうのである。焦点を変えるのですお互いが、だから、日々のお参りがありがとうなり、楽しゅうなってくる。神心がいよいよ強うなってくる。そこにはね。軽う見るとか、汚いとか、軽う見にゃあならんようなまた、汚く思うような例えば、人間ですと人ほどに可愛いものじゃとか、お気の毒じゃという。その心がかえって湧いてくるんです。努力せんでもいい。務めんでよか、いうなら、もう自然にそう思える。ああ、気の毒な人だと今までは見下げた人だと思うておった。見下げた人ほど可愛いものじゃと言う心で見られる様になる。そこにおかげはあるとこう私は断言して言えれる。それが反対になるとおかげはなしと言うことを今日断言しておられる。ですから、どうでもいよいよ神心を目指しての信心、そしてここに生き神とは人間形成のビジョンでもあり、欲情でもありますということになってくるわけであります。私ども信心させて頂いておる。いわば、その根差しと言うものはそれは人間形成のビジョンである。そこに理性というか、方針と言うか、信心の方針がはっきりしてくる。そこに心がいわゆる人間づくりと言われているが、心づくりが出来て来るのである。ですからね、目指すところが違う。目指すところが違うとですね。やはり、そういうことになりかねない。言うなら、おかげ目当て、それでいては、やはり願わなければならんことがある。ただ、生き神様にならしてくださいとばっかりいえません。痛いことがあったり、腹の立つことがあったり、苦しいことがあったりいたしますから。痛いかゆいということを願わしてもらいながら、その痛いかゆいを通して生き神の道をたどらして行こうというのである。そこに歩きにくい者を感じたら、はあ、自分の下駄ですら、歯がかけたら、歩きにくいのに自分の心が欠けておるから、このように歩きにくい人だと悟らしてもらう。そしていよいよ私どもの心がそのことを難儀を通してです。生き神の道をひたすら、歩かして頂くというおかげ、そこに精進の焦点がおかなければならないと思うんですね。どうぞ。